外郎家の家伝薬は、元々、中国の前漢の終わり頃(紀元前後ごろ)に、雲南省にある霊山で、この世に生きる全ての人がこの世で幸せになって欲しい、という願いから修行をしていた仙人が、修行中に病気になったことをきっかけに、病気に苦しむ全ての人を楽にする、それも魂まで癒す薬を造りたい、と山の神様に祈り、感応により処方製法と材料生薬の産地を教わったことで、生まれた薬だと伝えられています。
それら三つで一組の仙薬は誕生してから約四百年という開きをもって、陳という一家に、古代の神秘思想と、法華経というお経が持つ、人を幸せにする力を内に秘めた薬として伝えられました。
それからおよそ千年、陳家は、その薬の製造法を違えることなく大切に守ってきました。そのお蔭で、薬が日本に渡った後、陳家の子孫である外郎家がその秘めた思いを受け継ぎ、西暦2004年まで薬は誕生した当時のまま存続しました。
中国で、元が明に滅ぼされた時、陳家の子孫で陳延祐という人は元王朝の高官だったため、明に追われましたが、当時、ちょうど中国に留学していた日本の僧侶の方々に匿われて、家族と共に日本に渡りました。
当時の日本の将軍、足利義満公は延祐を京に招こうとしましたが、延祐は滅びた元王朝への忠誠を貫きたい一心で陳「外郎」(よそ者)と改姓し、義満公の招きを辞退しました。そして剃髪し、大宰府にあった寺の一隅に庵を結んで隠遁し一生を終えました。因みに陳外郎延祐の僧名は台山です。
延祐の息子の一人、大年宗奇は足利義満公の招きを受けて、父の代わりに京に上り、義満公から屋敷を賜り、朝廷に仕えました。そして延祐が天皇に献上した「陽」の薬(透頂香ういろう)と他の二つの薬を日本で造ることが出来るようにしたい、という天皇と義満公の命を受け、高価な生薬の仕入れに必要な多額の資金は、義満公が私財を投じて用意して下さったお蔭で、父の故郷に戻って製薬法を学び、材料の生薬を日本に持ち帰って薬の製造を始めました。
その時から製薬法を継ごうとする者は、京都のある神社に「薬に縁ある人々の健康と幸せのために自分の生涯を捧げる」という誓いの祝詞をあげに行くことになりました。その祝詞の言葉は、文書で残すことが許されたので、二十四代外郎家当主の時まで代々同じ文言を唱えてきたそうです。
外郎家では、この誓いを立てて初めて、法華経の「気」を薬に籠める理由となる、古代の神秘思想について学び、陳家が製薬法を受け継いで以来続けられてきたという修行をして、法華経と薬の「気」を共鳴させる方法を学んだ後、漸く製薬法を教わること(瞑想状態で行う作業を含むためです)が決まりとなっています。
因みに外郎家二代目から四代目の当主はいずれも臨済宗に帰依して僧籍に入り、半僧半俗(生活の半分は僧侶で、半分は俗人のまま)で朝廷に仕えました。
四代目当主、祖田有年には息子が二人いたそうですが、その一人、定治は足利義政公の命により、宇野家の養子になりました。正式な名前を宇野大和守源定治と言います。そして、その時に宇野家が信仰していた日蓮宗に帰依しました。日蓮宗の教義は法華経にありましたから製薬には臨済宗より都合がよかったように思います。
その後定治は北条早雲公の招きに応じて、表向きは北条家お抱えの医師として、現在の神奈川県小田原市に移り住みました。しかし実際は、朝廷に仕えていた時の人脈を使って、朝廷と早雲公との連絡役を担いました。また家伝薬の製造を祖田から引き継ぎ、七年も掛けて材料生薬と薬についての文献を小田原に運びました。しかし定治が苦労して運んだ薬の文献は、七十年くらいの周期で起こる大地震と津波のため、失われてしまいました。
尚、小田原外郎家は本来、宇野姓を名乗るはずでしたが、家伝薬の製造に関して、「ういろう」の名に、薬を末永く存続させるようにという勅命を頂き、その証として天皇家の御紋を拝領したことにより、製薬を続けている限り、または天皇家の御紋を守っている限り、外郎姓を名乗ることが家憲で決められています。しかし現在その家憲は守られていません。
また定治は、家伝薬の存在意義と、そこに籠められた法華経の祈りを守るために、日蓮宗第十三世、日傳上人を開山として菩提寺を建立しました。その時日傳上人は、法華経の守護神である七面大明神を祀る七面山から、一木二体で彫られた七面大明神のお像の一体を親しく背中に負ぶって菩提寺まで運び、勧請しました。更に、日常上人という方が彫られたと伝えられる日蓮ご聖人のお像を身延山から菩提寺にお迎えしました。
このように外郎家は、菩提寺を建立した縁ばかりでなく、代々の当主は、製薬を行うために修行を重ねており、法華経に精通していたので、日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の代々の法主と親交を持っていました。
実際何代かに渡る、法主から外郎家当主に宛てた手紙が、奇跡的に地震や津波の被害を免れたものだけですが、何通か残されていました。
ここに写真を公開いたします(手紙ではありませんが、菩提寺が天正四年に存在していたことを示す古文書の写真も掲載します)。
出来る事でしたらこれらの写真から、外郎家の法華経信仰の深さを汲み取って頂ければ何よりと存じます。
ここに写真を掲載いたしました古文書は、外郎家の菩提寺の金庫に納められていました。その金庫は、江戸時代の金庫作りの技術を継承した、最後の職人とされていた方が、ご自分の仕事が末永くこの世に残ることを願って、作って下さった金庫でした。
外郎家最後の当主、第二十四代外郎藤右衛門康祐は、この中の、日蓮御聖人のご真筆に毎朝法華経をあげていましたが、2005年末に、体調が悪化しました時、ご真筆を含め、菩提寺に関係する書類は身延山久遠寺にお納めしてほしい、と願いました。
しかし、その金庫はいつのまにか壊され、前にコンクリートの障壁が作られて、使えなくなりました。そして、中に納められていた古文書は行方不明になっています。ですから、この写真は、それらの古文書が、少なくとも2005年まで存在していたことを示しています。





















