「ういろう」の本当の意味

現在では「ういろう」は菓子の名前だということになっています。しかしその起源は約二千年前の漢の時代に中国の雲南省の霊山で考案された、「陽」「陰」「中間」と呼ばれる三つで一組の仙薬にあります。
昔から「不老長寿の薬」というと多くの人にとって夢の薬であり、伝説の中にしか存在しない薬だと思われていると思います。しかし、その仙薬は実在し、室町時代に当時の天皇と足利義満公の尽力によって日本に伝えられ、平成十六年(2004年)まで、その特殊な力を有した古代の薬のまま製造されてきました。

それらの薬は、この三次元世界(娑婆世界)に生きる人々に、何度生まれ変わることになっても、いつかは必ずこの世で幸せになって欲しい、という願いから、肉体の生きる苦しみに囚われて、魂までが道に迷わないように、法華経というお経を内に籠めて造られました。言い換えれば、法華経を薬の形にすることで、目が見えず、耳も聞こえない人であっても、身体を通して、その魂が直接法華経に触れ、経が持つ気(エネルギー)を道標にして、元々魂が存在していた高次元世界(あの世)を思い出し、この世のしがらみ(執着心)から自由になって頂くことを目的とした薬でした。

しかし古代の為政者は、肉体が不老長寿になることだけにしか気が付かなかったようで、敵にその薬を飲まれると、自分より元気になり、長生きして自分を滅ぼすのではないか、という恐れから、それらの薬とその製造者を見つけ次第、根絶やしにしようと探し回ったと言います。秦の始皇帝はその有名な例でした。更に、それらの薬にそのような力があることを知って服用した人の心には、自分がどれほど人の道に外れようと、死後は必ず成仏できる筈だ、という傲慢な気持ちや、本当にその薬にそんな力があるだろうか、という疑念の気持ちが生まれ、その気持ちに魂が引きずられて結局道に迷ってしまう、と考えられてきました。そのため、薬が持つ特殊な力は製薬を継ぐ覚悟をした者にしか伝授されない秘密で、漏らそうとした人は何故かあの世に呼び返されてしまう、といわれています。実際、室町時代以降にその内容を記録しようとした人が二人いたそうですが、いずれも書き終わらない内に急死しています。

しかし社会が精神主義よりも物質主義を重視するようになると、それらの仙薬を承継するために、六百年前からの決めごとである、京都のある神社に「薬に縁がある人々の健康と幸せのために自分の生涯を捧げる」という誓いの祝詞をあげた上で、製薬法を学ぶ前段階として古代より伝承されてきた神秘哲学を学び、法華経に基づく厳しい修行をして特殊な瞑想法を修得しようとする者は殆どいなくなり、後継者を探すのは困難を極めるようになりました。
その上「陽」の薬は真の完成までに五年熟成が必要ですから、その薬だけでも最低六年の勉強が必要でした。つまり効率優先の時代に生き残れる薬ではなかったのです。

仙薬の最後の承継者となりました、第二十四代外郎藤右衛門康祐は、国立大学卒業の薬剤師であり、戦後すぐに東邦大学から講師として呼んで頂いたことがあるほどの生薬、漢方薬についての知識を有していましたが、それでも、それら三つの薬の製薬法を修得するまでに十年という歳月を必要としています。
それらの薬の薬効は「九竅を開く」という、たったそれだけの作用ですが、難しい言葉なので、後世解り易い言葉で言い変えたところ、万能薬といわれるほど沢山の薬効を持っていることになりました。

しかも、その仙薬には薬が誕生した時から厳しく守られて来た掟がありました。その一つは、それらの薬の内「陽」の薬は、処方製法を少しでも省略変更すれば、薬を服用する人に不治の病に至る有害な症状が表れることがあるため、省略変更の必要がある時は、製薬を止め、二度と造ってはならない、というものでした。そればかりでなく、たとえ処方製法を省略変更していなくても、薬を服用していた人に、死に至るとされる、副作用の初期症状が見られた場合は、生薬成分に何らかの変化があった可能性があるとして、以後の製薬は止めなければなりません。尚、「陰」「中間」の薬も処方製法の省略変更は許されません。そして間違ってもこの危険な副作用を出さないようにするため、薬の製法は三つ共、口頭のみで(口伝で)何度も繰り返し教えることで継承されてきました。文書で残すと時代によって言葉の意味が変わってしまうことを恐れたためでした。

もう一つ伝えられている掟は、三つの薬は一組で調和を保っているため、その中の一つでも製薬を止めてしまうと、製薬に携わる人の体の陰陽のバランスが崩れて病気になり、製薬作業そのものが出来ない身体になってしまうので、三つの薬のどれか一つでも製造を止める時は、他の二つの製薬も止めなければいけない、というものです。この掟のため、製薬に携わる者は三つの製薬法全てを修得してから漸く具体的作業を許されました。
尚、なぜ薬に籠める経が法華経で、他の咒(まじない)やお経や真言ではなかったかという理由は、薬を考案した仙人(道教の道士)は、薬を直接高次元世界と繋げることが出来なかったため、その仲介となるものを探しました。そして高次元宇宙の波動と最も共鳴しやすい波動を持っているとして、道教の修行者でありながら、仏教の経典である法華経を選んだのです。

それらの薬の製薬法は誕生から約四百年後に陳という姓の一家に伝えられました。そして陳家で約千年守り伝えられてきたそうです。
しかし、元が明に滅ぼされた時、陳家の一員で、元に仕えていた陳延祐は占いの能力に優れていたため、明に仕えるよう強要されました。
しかし延祐は元に忠誠を誓っていたため、二朝に仕えることに耐えられず、世を捨てて隠遁することにしました。しかし家族が明の人質にされることを恐れて、故郷の浙江省に住む兄に家族を預けようと、一家で逃避行を試みました。
しかし明の追っ手に行く手を阻まれ故郷に帰ることは出来ませんでした。その時偶然にも、延祐が役職にあった時に懇意にしていた日本の留学僧の方々が、王朝交代時の混乱を避けて帰国の準備をしていたところに行き合わせ、その方々に匿われて家族と共に日本に渡りました。博多に入ったという説が一般的ですが、製薬法と共に伝えられる外郎家の歴史では大宰府に入ったことになっています。
そして、その時に家伝の仙薬の内「陽」の薬(そのころの薬名は霊宝丹といいます)を天皇に献上しました。

当時の室町幕府の将軍、足利義満公は延祐を室町幕府に迎えようとして再三使者を送りました。その時代には天気予報というものがなかったので、農業にも旅行にも戦いにも大きく影響する天気を九割方正しく予想出来たという延祐の能力が、医師としての能力以上に、高く評価されたのです。

当時は封建時代で、国の最高指導者に逆らうことなど許されない時代でしたから、日本に亡命してきた身で、義満公の招請を断ることは「死」を意味しました。しかしそれでも延祐は元王朝への忠誠心を貫き、室町幕府に入ることを固辞し、その時に姓を「外郎」へ改めました。
この名前の中の「郎」は「人」と同義語ですから、実際は「外(よそ)の人」つまり「よそ者」という意味を込めての改姓でした。

幕府の役人に「よそ者」という名前の人がいたら、誰もその人を信用しないだろうから幕府も諦めてくれるに違いない、と考えたのです。しかし、絶対的権力を持つ将軍に逆らったことには変わりないわけですから、その本当の意味を隠すため、日本には二字の姓が多いから、延祐が元に仕えていた時の役職「礼部員外郎」(れいぶいんがいろう)の一部「外郎」を取って二字の姓にしたという言い訳を作り、更に「外」を「うい」と唐音で読ませることにしました。

過去の、これまで調べた文献では「員外郎」を略する時は「員外」とし、「外郎」とした例は見られません。読み方も「いんがい」です。ですから、「ういろう」という言葉はそれ以前の中国にも日本にも存在しない、延祐が命がけで考え出した造語でした。

以後、外郎家が、その姓の本当の意味を明らかにすることはありませんでした。延祐の遺した「外郎家の者が家の歴史や自らの経歴を自分の方から語るようになった時、家は滅び、家業は失われるだろう」という予言を守っていたからです。
しかし、足利義満公はさすがに将軍、延祐が「外郎」に改姓した理由にすぐ気が付いたそうです。そして、それ以降は幕府への招請を止め、代わりに朝廷に仕えるよう勧めてきました。
しかし延祐にとっては、日本の朝廷に仕えることも元への忠誠を破ることになるため、自分の息子を代わりに京都に行かせ、自身は大宰府の崇福寺という寺で剃髪して僧籍に入りました。僧名は台山です。
因みに延祐には三人の息子がおり、三人とも医師になりましたが、二人は博多に居住したと伝えられています。娘が何人いたかは伝えられていません。延祐が博多で没したという言い伝えは外郎家に残っていますが、博多に居住したとは聞いていません。

陳延祐の息子の一人、大年宗奇(これは僧名です。俗名は伝わっていません。)は、日本に渡ってきた時にはまだ少年だったそうですが、既に医薬に通じ、更に霊的に特殊な能力を持っていたと伝えられています。そして足利義満公から京都西洞院に屋敷を頂き、天皇の侍医の一人として、また母国語の中国語だけでなく日本語も堪能だったことで、朝廷で外国信使の通訳兼接待役として、活躍することになりました。

そして、不老長寿の薬を日本でも造れるようにしたいと願われた当時の天皇の命により、また足利義満公が、高価な材料生薬を輸入できるように私財を投じて下さいましたことで、中国の父の故郷に帰って仙薬の製薬法を学び、更に三つの薬の製造に必要な三十種類近い生薬を探し集めて持ち帰り、日本で仙薬の製造が出来るようにしました。

こうして造られた薬の内「陽」の薬は朝廷にお仕えの方々に愛用して頂き、烏帽子の折り返しに入れて持ち運んだことで、参内してくる貴人達の烏帽子を通して良い香りがしてくることを喜ばれた天皇から「透頂香」という名前を拝領しました。この名前に周囲の方々は、よそ者が造っているという意味を加えて薬を「透頂香ういろう」と呼ぶようになったと伝えられています。ただ、現在では、菓子と区別するために「ういろう」を付け加えた、という、後から作られた説が有力になっています。

因みに、三つセットの薬の、残り二つの日本名は、陰の薬が妙香散、中間の薬を五香湯三薬といいます。五香湯三薬は更に朝、昼、夜、と服用する時間により処方と剤形が違う薬で構成されていますが、室町時代は三つ各々に名前が付けられていたそうです。

ここで、菓子について触れておきますと、本来の「菓子のういろう」はこの時代に大年が考案したものです。大年は、朝廷で外国の大使を接待する時に、日本独自の菓子が少ないことを残念に思いました。そこで、日本を象徴する菓子を作りたいとして、玄米と山桜を使った菓子を考案しました。この大年が考案した菓子は、蒸し菓子ではありましたが棹ものではなく、更にこの菓子は、食事による胃もたれや、胸焼けなどを防ぐ目的を加味して、食後のデザートとして考案されました。黒砂糖を使ったのは、山桜の渋みを消すためだそうです。大年はあくまで医師であって、菓子製造が本職でなかったからでした。その菓子は、日本人ではない者が日本独自の菓子を作った、ということで、朝廷内で評判となり「ういろうの菓子」と呼ばれていたものが、時を経て「菓子のういろう」と呼ばれるようになりました。

また、この本来の菓子は、女性の、産後の肥立ちが良くない時と、母乳が充分出ない時に食べると改善するといわれ、それが縁となって、室町時代に今の山口県の大名、大内氏に伝えたことが外郎家の言い伝えにあります。しかし現在の山口県にそのレシピと製法を伝えているところはないようです。

昭和二十年代末、二十四代当主は保健所から「菓子のういろう」は山口や名古屋で造られているものこそが本物だから、小田原の外郎家がそれとは違う偽物の菓子を作るべきではない、と注意を受け、本来の菓子について説明しても信じて頂けなかったため、元々大年が考案したという由来だけでも世に残したいとして、菓子の作り方を、手間が掛かる本来のやり方から大量生産可能なものに変え、そのためにレシピも変更して、製造販売しました。実際、本来の菓子は販売出来るほどの量が造れる菓子ではありませんでしたから、その後は外郎家の家内だけで伝えることになりました。

そういう訳で、本来の「菓子のういろう」の味は、2016年の熊本震災が縁となって、偶然山桜が入手できましたことで、ただ一度だけ復元した時に召し上がって頂いた方以外で、御存じの方はいらっしゃらないと思います。
話を戻して、前述したように、外郎家の家伝薬の製法を継ぐ者は、京都の神社にその決意を誓いに行くことになっていました。しかし、もし誓いを立てた者が隠居等によって誓いを果たせなくなった時は、衣一枚、杖一本で、人々の健康を祈りながら全国を行脚して回ることになっていました。しかし、大年は隠居することなく、宮仕えの身のまま一生を終えたと伝えられています。

その後、外郎家は代々天皇の侍医として、更に外国大使等の接待役として朝廷に仕えました。その間の、四代目祖田有年の時代まで、仙薬はその製法を継ぎたいと願い、必要な修行が出来る者であれば、誰でも継ぐことが出来ました。しかしおそらく、全ての材料を中国から輸入しなければならない薬、しかも人参、麝香、龍脳、牛黄、沈香、白檀、琥珀、乳香といった高価な生薬が入る薬を造り続けることは出来なかったのでしょう、今のところ、室町時代に本来の薬が外郎家以外で造られていたという記録は見つかっていません。その外郎家も、江戸時代に日本が鎖国をしてからは、薬の愛用者でいらした徳川秀忠公の特別なお許しがなければ、材料の輸入が出来ず、鎖国が実施された時点で製薬を止めなければならなかった筈でした。

外郎家はその後四代目祖田の息子たちの時代に京都と小田原の二つに分かれます。京都外郎家はそのまま天皇のお側に仕えましたが、残念なことに江戸時代に絶家してしまいました。
もう一人の息子で、小田原外郎家初祖となりました定治は足利義政公の命により、足利家の祖であり宇野源氏の直系の家である、宇野家の養子となり、その後、戦国武将の一人である北条早雲公に呼んで頂いて、現在の神奈川県小田原市に移り住みました。その時、京都から小田原まで薬の材料と薬関係の文献を運ぶだけで七年掛かったそうです。何故そこまでして引っ越したかというと、家伝薬の製造は瞑想状態で行う作業を含むため作業に没頭できる静かな環境が不可欠でした。しかし当時の政権争いが絶えなかった京都では、その環境を得られなかったことが理由の一つだったそうです。

実は、定治が北条早雲公の招きに応じて小田原に移ったのには、もう一つ大きな理由がありました。定治は元々朝廷に仕えていたため、皇族や公家の方々と親交がありました。定治が早雲公から頂いた土地に、八つ棟造りという、上から見ると十字架の形をした、破風が八つある三階建ての屋敷を建てた時には、天皇から祝いの綸旨を賜わったほどでした。
そこで定治は、朝廷と、京都から遠い小田原にいる北条家との連絡役、パイプ役になるために早雲公に呼ばれたのです。ですから、表向きは北条家お抱えの医師としてお城に上がっていましたが、北条家の家臣の人達からは、早雲公と親しい関係にあることが知られないよう細心の注意を払い、自分から登城する時には出来るだけ人目につかない日時を選んでいたそうです。一方小田原に移る前、定治は当時の天皇で、応仁の乱後の混乱の中で困窮している人々に御心を傷められていた後柏原天皇から「貴賤貧富の別なく、病に苦しむ人々が誰でも手に入る薬として、透頂香ういろうを末永く造り続けるようにしなさい」という勅命を受けておりましたので、製薬を行いながらの仕事となりました。気候の関係で製薬出来る期間が限られていたため、仕事に差し支えることはなかったそうですが、それでも戦国時代初期に小田原と京都の間の長い道中を、親書を携えて、護衛の人達と、秘かに何回も往復するのは大変なことだったそうです。

天正十八年、定治の孫の代に、豊臣秀吉公の小田原攻めに北条氏が敗れた時、外郎家は武士の身分でしたので、本来は北条氏の家臣の人達と共に小田原から追放されるところでした。しかし、膨大な薬に関する資料、文献と家伝薬の材料生薬を持って即刻移動することは出来ませんでした。ですから、その時点で製薬は出来なくなるはずでした。しかし有難いことに、八つ棟造りの屋敷の八つの破風の瓦に天皇家の御紋が入っていたお蔭で、「武士であっても北条氏の家臣とはいえない」と認めて下さった秀吉公から直々に、武士から町人の身分になり医薬に専念する約束で、特別に小田原に残ることをお許し頂きました。こうして秀吉公の恩情により、八つ棟造りの屋敷も、天皇から綸旨を賜った時の勅使門もそのまま残りました。このような経緯で、江戸時代には「町人なのに勅使門がある家は外郎家ぐらいだろう」といわれていたそうです。

このようにして外郎家は町人になりましたが、それからも後柏原天皇の勅命に従うため、透頂香ういろうでは一切利益を上げないことにし(他の二つの薬は代金を頂いたそうですが、高価だったため、買えた人は大変少なかったそうです)薬を必要とする人は、その人の気持ちだけのお礼で薬を入手できるようにしました。そのため、材料費と人件費は、天皇から賜った領地と開墾して得た土地からの収益で賄うことにしました。ですから、飢饉の時などは、大切な土地を売って材料費を賄わなければならないことが多く、室町時代の外郎家の立場をご存じだった大名や大商人の方々が惜しみなく温かい援助をしてくださいましたが、それでも明治時代になると外郎家の財産は、わずかな小作地と、薬のお礼として芸術家や職人の方々から頂いた書画骨董品以外には殆ど残っていなかったそうです。勅命を守るために天皇から拝領した土地を売却することはできましたが、薬によって病が治った喜びから感謝の印としてお贈り頂いた書画骨董を売ることは、外郎家には出来なかったからです。

蛇足ですが、それらの書画骨董は、戦時中の疎開により殆ど失われてしまいました。それでも1980年代に専門家に調べて頂きました時は、その価値は概算で一億円以上あることが分かりました。しかし、その後売却も贈与もしていないにも関わらず、2014年の当主の死に伴う遺産相続時には、書画骨董はたった百万円になっていました。
横道に逸れましたが、前述したように宇野家の養子となった五代目定治の正式な名前は宇野大和守源定治ですから、当然子孫である小田原外郎家は宇野姓であるはずでした。しかし、透頂香ういろうに関して前述の勅命を受けた時、定治はその証として天皇家の十六弁の菊花の御紋を拝領しました。感激した定治は、天皇の御心に報いるために、勅命にある「ういろう」の名の仙薬の製造を続ける限りは外郎姓を残すことに決め、「外郎宇野」と名乗りました。そして、薬が造れなくなった時には勅命に従えないことになるとして、姓を「宇野」に戻し、天皇家の御紋の使用も止めることに決めました。また、天皇家の御紋の使用が出来なくなった時も、同じ理由で製薬を止め、姓も同様「宇野」に戻すことにしました。この定治が残した取り決めは、家憲として四百五十余年代々守られてきました。

尚、天皇家の御紋を拝領する前の外郎家は先祖の陳家の紋を使用していました。専門家に調べて頂いたところでは、西夏文字の一部で「進め」という意味を持っているそうです。
しかし、いくらその後の外郎家が天皇家を深く崇敬し、勅命に従って来た、といっても、実際には高価で五年も熟成が必要な薬に、求める人の気持ちだけの代金、または品物しか取らなかった訳ですから、これが江戸時代に大変な誤解を生んでしまいました。つまり、材料が安くて何時でも入手でき、製法もごく簡単な薬だからこそ、気持ちだけの代金しか貰わなくても利益を上げているのだ、と思われてしまったのです。しかも歌舞伎の舞台で紹介されてしまったことにより、偽物の薬が、本来の薬だと称して行商されるようになりました。外郎家は偽薬で有害な副作用が出ることを恐れて、当時、偽薬を取り締まる唯一の方法だった、透頂香ういろうの独占販売を各大名に願い出ました。しかし、本来の薬が材料と製法の関係で僅かしか造れなかったため、偽薬の製造販売を止めさせることは出来ませんでした。さらに行商の人達や江戸時代の歴史家、作家が創作した外郎家の歴史が古文書として残ってしまったため、口伝で承継された(何度も繰り返し教えられたと云っても文字にすることを許されなかった)、本来の外郎家の歴史は事実上消えることになりました。

それでも外郎家は、陳延祐の予言と、五代目定治の、万難を排しても勅命に従うという決意を、明治、昭和といった歴史と価値観の大きな転換期にあってさえ、守り抜きました。
その勅命を記した綸旨が奇跡的に明治十八年まで外郎家に残っていたお蔭で、その内容が、綸旨を調査に来られた明治政府の方から、林大将、阿南大将というお二人の方に伝えられ、その方々のお蔭で、古代のスピリチャルな力を宿した薬は、現在の、薬には副作用がつきものだ、という考え方に合わなくなった後も、半世紀近く存続できました。
一方定治は、自分を武士の身分に取り立てて下さった足利義政公への御恩も忘れませんでした。そのため足利家にわずかでもご縁のある神社仏閣に参詣する時は、薬の承継者となることを誓いに行く神社以外は、「外郎」姓を使わず、「宇野」姓で詣でるように決めました。この決まりも二十四代当主の時まで固く守られました。例えば二十三代当主は、京都の八坂神社に十数回も正式参拝に行ったことが伝えられていますが、外郎姓でお参りしたことは一度もなかったそうです。

また、定治は透頂香ういろうの製法が大変難しいことから、万一製法を正しく承継していない者が製薬を行って、薬を服用する人に、言い伝えにある有害な作用が表れることがあれば、天皇の尊い御心に背くことになるとして、製薬法を一子相伝にしました。更に「ういろう」に関して、「如何なる争いの場にも天皇の御名を出してはならない」という掟を作りました。その掟は外郎家が絶家する時まで守られました。

しかし残念ながら、菓子のういろうの登録商標を名古屋の会社に上乗せで掛けられたことに抗議して裁判を起こしましたところ、2002年、最高裁判所は「ういろう」という言葉を菓子の普通名詞とし、名字としても、薬の名前としても、固有名詞とは認めない、という判決を下されました。その決定により、薬の、勅命に示されていた「透頂香ういろう」の名は使えないことになり、事実上、天皇の御心に従えなくなりました。こうして多くの人々の健康に貢献してきた古代の薬は、伝説の中に戻りました。
また、国の最高機関が、外郎家の、過去帳に名前が残っているだけでも百八人に及ぶ先祖たちが、心から天皇家を崇敬し、法華経信仰に生きた姿勢、中でも家伝薬の製法を継いだ代々の当主の、人の健康のために生涯を捧げることを神に誓い、修行を重ねながら、勅命に従い、古代神秘哲学に基づく薬を守ってきた姿勢は、現代では時代遅れであり、いつまでも先人に義理立てするべきではなかった、とご教示下さいましたことで、平成二十六年(2014年)4月の当主の死をもって、外郎家は約六百年の歴史に幕を閉じ、絶家致しました。こうして遠い昔、伝説の仙薬とその製造者を見つけて抹殺しようとした秦の始皇帝の願いは実現されました。

ここに最後の末裔として、一子相伝の製薬法と共に口頭のみで伝承され、書き残すことを禁じていた、外郎家の真の歴史と、その家が守って来た伝説の薬について、文章にすることをお許し下さいました、この世の全ての存在と、この言い伝えを信じて、お心をお寄せ下さいました室町時代以降の数えきれない多くの方々に心からお礼申し上げます。
また、ここに真実を発表しましたことで、2004年以前に製造された「透頂香ういろう」がこの世にまだ残っていたとしても、その薬から法華経の祈りは消え、霊的な作用が失われてしまいましたことを、深くお詫び申し上げます。
お目通し頂き、誠に有難うございました。